2017年5月15日月曜日

料理


 昔から身体を支配できないような、如何ともしがたい感覚があった。それが強烈な劣等感でもある。病気になって、それは加速した。寒暖すら全くどうにも理解できず、腹が減っているのかどうかも。指先も舌先もままならない、ような気がしている。

 以前に、大学の授業で山奥の神社での「神降し」の映像を見た。身体も心もホンモノになっている感覚というのは強烈な印象で。

 身体が如何ともしがたければ、当然言葉も如何ともしがたく、それをなんとかしたい、両方をなんとか統御したい、ということが人生のテーマだった。

 料理をした。最後に。現実離れをしているようで、夢の中にいるようだった。
 生を成り立たせるための行為を使って、それに相反する目的に向かうことができないだろうと不安だった。悲しさ虚しさ怖さに、きっと竦むだろうと思って。実際、ずっと食欲すら出てこないのだから。

 料理は好きだ。
 しかし、最後の料理は身体が浮遊しているようで、何が自分を動かしているのかもわからない、澄明な無心だった。回想もなかったし、希望もなかった。
 味見で味を確かめるときも、ただ無機質な旨味の反応を伝えただけだった。
 闇夜に霜の降る如く、手先が動いた。
 各々の行為と、要素が、全体の統一を作り出してゆく。
 好きな作家にクライストという人がいて、彼が、操り人形の方が人間よりも理想的な人間の動きができると書いていたけれど、まさにそんな操り人形になったようだった。

 これは勝手な解釈かもしれない。自分が死ぬ為の行動に幻想を見たかっただけかもしれない。あるいは、味見の弱毒のおかげでトリップしただけかもしれない。
 しかし料理が終わった瞬間に、一気に弾けるように、身体の感覚が戻ってきたし、下っ腹の痛さも、ここしばらくずっとなかった眠気も、戻ってきた。いや、だからと言って生に執着が生まれたわけではないが。
 

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