2015年3月8日日曜日

うずらの卵

東京の串揚げ屋での話。「う玉」とメニューに書いてあり、平仮名で「う」は当然「うなぎ」の「う」、「玉」は「玉子」だから、これは「う巻き」に違いない、う巻きの串揚げなんて大層なものだなあと早速注文したら、見慣れた小さな卵が三つ、串に刺されて揚げられて登場した。それからというもの、うずらの卵には個人的な恨みがある。もう間違いなく自業自得な逆恨みである。

しかし考えてみると、うずらの卵がなぜ当然のように食されているのか解らない。たいてい水煮に加工されているか、生でざる蕎麦の隅にいるのかのどちらかである。ざる蕎麦には合わない。だいたい山葵と合っていない。では水煮はというと、これも今一つ魅力が解らない。脇役も脇役。

ここで言いたいのは「玉子」が嫌いなわけではない、ということだ。ニワトリの卵は人並み以上に好きである。「卵は一日一つまで」という、健康の為なのか何なのか解せない悪法は打破せねばならんと思うくらいに好きだ。

はたしてうずらの卵をそれほど好んでいる人というのはいるのだろうか。

こんな風に、うずらの卵に対する疑問は解消できずにいた。
あるいはピータンにすれば前菜やつまみになるかもしれないし、孵化する前に茹でてバロットにすれば珍味になるかもしれない。この 奇食はまだ実現していないので、いずれ試したい。

昨年の暮れ、殻を付けたままの串焼きで食べる機会があった。近頃、ひそかなブームが来ているらしい。この、ニワトリの卵では不可能な食べ方は、良かった。原始的な美味さがある。この調理法はコロンブスのうずらの卵と言ってもいい。

この発想を流用して、殻ごとパン粉をつけて揚げて、新たな「う玉」の串揚げをつくってほしい。なんて魅力的なうずらの卵だろう。食感の三重奏である。早速調理開始と行こうと思ったけれども、揚げ油に入れると危険な爆弾になってしまう未来が見えたので、あえなく中止にしたのだった。コロンブスによる悲劇である。

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