身体が病んでると、雨が止んだか解らない。何しろ病室には縁側がない。そもそも外出しないから天候を気にする必要もないけれど。
落ち着いた止水の無関心ではない。臥せる身体の湖面に波は起こっている。それがための感覚の鈍い停滞。
潰瘍性大腸炎という病気を舐めてたわけじゃない。ただ、指定難病の一覧を見て、他のえげつない疾病の中では、恵まれた生活を送れる病気だなんていう認識があって、それが油断に繋がったのか。
つまり自分では何故、今入院しているのかがわからない。これが難病の恐さかしら。
この病気との付き合いの中で解ったことがある。
桜前線の北上と、紅葉前線の南下と共に体調が不安定になるのである。世間が野の彩りに浮れる頃に、我が大腸も赤く色付くのだと考えると、何たる風雅なハラワタだろう。そこらの人よりも、より鋭敏に内側から季節の移ろいを感じられる身体である。これは現代病によって疑似的な野生らしさを付与されたとでも言うべきかもしれない。
しかし、五月に体調面での苦い経験はあまりなかったのだ。
自分の焦りを時季が追い越したのか。はたまたその逆か。
もう随分と暑くなっているだろう。病棟から出ると正月に南国へ行った時のような空気を感じるのだろうか。死臭の漂うタイムカプセルの中では旅行の思い出に耽るしかない。
今になって思うと、入院する前から亡霊のような死臭を纏った日々を送っていたような気がする。
病室から関東平野が見渡せる。自分はこの平野の泥の中で、泥塗れになって、跳ねて、這い、逃げるムツゴロウのようなものだったのかもしれない。
ただ今は、そんな自らの泥魚すら屠って英気を養わねばならん。いのちの回復をしなければならん。
できれば、身体はこのまま何事もなく。所帯を持つまで何事もなく保ってもらいたい。
こんな望みは甘いんだろうか。
ここが思案の善哉かな。
0 件のコメント:
コメントを投稿