2015年6月2日火曜日

「ユトリロとヴァラドン」展 

東郷青児美術館が生活圏にあるのは幸福なことだ。近くにあって、こんな素敵な美術館って他にない。
ビルの中にあっておよそ美術館の雰囲気もなく、常設の作品はほとんどないけれど、とにかく企画展が外れない。メインストリームから少し外れた周縁の芸術家の展覧会が多く、やたらと集客に拘ってない感じが良い。値段も高くない。混まない。疲れない。

上野や六本木で得ることのある、異常な疲労感や金を無駄にした感覚をこの美術館で感じたことがない。

「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」展に二度、足を運ぶことになった。動機はどうだっていいけれど、二回も行ったんだから何か書くことにしよう。

日本では、ユトリロに比べてスュザンヌ・ヴァラドンの知名度や人気というのは低いのだろうか。
ユトリロの母という認識以外では、印象派におけるベルト・モリゾのような、ベル・エポックにおいての中心的な画家、つまりロートレックとの関連で覚えられる女流画家というイメージである。

しかし、今回の展覧会ではユトリロよりもヴァラドンの方が存在感があった。展示数は両者同じくらいだけれど、単調なユトリロの作品群に比べるとヴァラドンの絵は肖像、静物、風景、どれも鮮烈。大胆で愉快。溌剌としていて情が濃く、ユトリロとは好対照である。

今までヴァラドンを扱った展覧会がどれほどあったのか知らない。しかし、今回の企画展でユトリロの名に釣られて足を運んで、ヴァラドンに奇襲されてショックを受けた自分みたいなミーハーな人間も相当いるんじゃないかしら。

ユトリロの有名な「白の時代」の時期、展示されていたヴァラドンの作品で出色なのは《モーリシア・コキオの肖像》だろう。
ユトリロの絵に献辞もあったギュスターヴ・コキオの妻である。彼はユトリロを最初に評価した美術批評家だそうだ。名を聞いたことがあると思ったら、『回想のロートレック』という本の著者で大学の図書館で見たことがあった。邦訳の出版はこれだけである。

フランスの青空文庫みたいなサイトでは、このギュスターヴ・コキオの著書“Maurice Utrillo,V,”という本が公開されてあった。
今回ミュージアムショップでは何も買わなかったけれど、こういった本を邦訳して出版してくれたら絶対購入するんだけどな。


ここまでユトリロについて何も触れていない
だから「白の時代」について少し。
この「白の時代」の絵が好きだから、ユトリロに興味があった。非常に浅薄ですな。
根拠はないけど、日本人には「白の時代」の絵を好きな人が多いように思う。人気があるものについて、好きなところを語るのは、こっぱずかしいけれど勇気を持とう。

とにかくこの一群の絵には生命感が無い。モンマルトルという下町が題材なのに、だ。
これは打ちっぱなしのコンクリートの建築物のような「生命感の無さ」ではない。絵自体にはいのちの情感を感じるのだ。つまり画中の虚しさに比して画家の生命感だけが残る。それは大して強いとも言えないし、際立っているとも言える。「画家がアル中」という前提知識が、そう感じさせるだけかもしれない。
展覧会の解説にユトリロは「質感の画家」とあった。画家が絵具の質感に苦心したという意味である。この「質感」とは、つまり生命の拍動だ。

白の質感。純白なら完全な拒絶だけれど、そうではない。くすんだ白であり、まどろんだ白である。全てを拒絶しきれない、虚無と寂寥がある。何か『陰翳礼賛』に通ずるものがありそうだけれど、また「日本人は~」ってことになりそうだから、止しましょう。

そうだ、この「白の時代」の絵は、明け方まで飲んで溺れて、帰りに歌舞伎町を突っ切って帰るときの情景に似ている。色は無し、セピア。ゴミ置き場で酔い潰れた人、退勤するホスト、ラブホテルから出てくるカップル、全てが眼中に入らない。気が大きくなっているわけでもない。むしろ孤独感の襲来である。
ちょっと一杯飲んで、陽気に帰るときの不夜城の景色とは完全に別物だ。
アルコールというのはまったく恐ろしい。

話がずれたけれど、とっくに実感している寂しさや孤立の心象の中に浸透してくるユトリロの絵は、やっぱりたまらない。

まだ書き足りないので、また日を改めて書こうと思う。

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