金魚が好きになれない。子供の頃、水槽が玄関の外に置いてある下町の家の前を通る度にその中を覗いてみると、苔まみれ藻まみれの緑の水の中にはたいてい妖怪のように育った金魚がひそんでいて不気味であった。
金魚は大きく育つべきではない。金魚鉢に入った金魚や縁日の金魚は、綺麗だ。
江戸時代の豪商は天井にガラスを置いて、その上で金魚を泳がせたなんて聞くけれど、それも装飾としては良いと思う。つまり金魚には「生命」なんてものは感じなくて、そう割り切って鑑賞するためのものだろう。そもそも「見る」ために作られた存在なわけだし、動く装飾物とでも捉えるべきだ。
つまり、それは魚を見ているとはいえないんじゃないかと思う。だから魚好きとして金魚は好きになれない。
まったく逆の理由から熱帯魚も好きではない。熱帯魚それ自体ではなく、煌煌とした白い光の下の水槽にいる熱帯魚が良くない。熱帯魚は金魚と違って装飾ではないわけだから。あれが成金趣味のわざとらしく華美なオブジェに見えるのは自分だけだろうか。あの水槽はもう「飾り窓」のように感じるのである。
ところで、金魚はなぜ金魚と呼ばれるのだろうかという子供の頃からの疑問がある。青虫を青虫と呼んで緑虫と呼ばない理由は、青信号やら青林檎やらの疑問と含めてすぐに教えてもらったのにも関わらず。
「金魚は金のように高いから」「輝いて見えるから」「原産地の中国でそう呼ばれていたから」なんて聞くけれども、どれが本当なんだろうか。
金魚は、緋鮒という突然変異で赤く生まれた鮒を交配させて創り出された。と、漫画の『釣りキチ三平』の緋鮒を釣るエピソードで知った。
ちなみに三平くんが「羽衣鮒」という魚を釣り上げるエピソードがある。これはテツギョ(鉄魚)という実際にいる魚だけれど、写真を見ると本当に羽衣を着ているように美しい魚で、「 羽衣鮒」っていうネーミングは素敵だ。
テツギョは、ある種の金魚と普通の鮒を交配させると生まれるらしい。「金」と「無価値なもの」を混ぜると、ありふれた 卑金属になるわけですな。
赤い鯉は緋鯉という。金鯉は黄金の鯉である。赤い鮒は緋鮒という。さて、金魚は。
鯉と金魚という鑑賞のための二大魚であるが、大きな違いがある。
一つは上で書いたように金魚が弱々しくて「生」を感じられないこと。もう一つは、鯉は徹底的に上から見られるものであり、金魚の見方は多様であるということである。縁日では上から見る。金魚鉢では球面越しに。天井のガラスの上に泳ぐ金魚を下から見てもいいわけである。
金魚は雲母の欠片だ。
野生でひっそりと生きていた緋鮒が、人工の鑑賞物として扱われるようになると名が変わる。
いわば源氏名とか芸名みたいなものだろうか。
町内会の縁日の金魚すくいで、店仕舞いの間際に金魚を配っていたので貰って帰った。
水槽に入れて眺めていると、やっぱり退屈な魚だなと感じる。
夜中に目が覚めて、暗闇の中へ街灯の光が一筋入る。
水槽をちらりと覗くと、金魚がワンポイントの蒔絵のようであった。
じっと息をこらしているこの魚を初めて美しいと思い、写真を撮った。
輝いて見えるから、というのは存外真実なのかもしれない。
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