タランティーノの8作目『ヘイトフル・エイト』は、"フィクション"を楽しむことと、さらにその奥にあるものを味わう映画だと思う。
我々は、自分にとって都合の良いものを信じるのが常である。
駅馬車に乗り込んだ自称・新任保安官のクリス・マニックスは、父親を南部のために戦った英雄だと誇りに思っている。
しかし、クリスの父親は「ワシントンD.C.で刷られた新聞」では極悪人とされていて、そんな情報を信じているジョン・ルースは、偽の「リンカーンの手紙」に感極まっている。
(手紙が渡される時の光が神々しい)その馬車の中のルースの感激自体は真実だし、手紙の持ち主ウォーレンにとっては偽造であっても、その重さや大切さは変わらない。少なくとも映画の結末のように、丸腰の自分を殺さない白人が現れるまでは。
手紙が偽物だと露見した時点で、「嘘だとか事実だとかそんなこと関係なく混ざり合った”フィクション”を味わいましょう」と思わされる。
このシーンに続く、ウォーレンが南部の将軍を挑発して撃ち殺すシーン。
ウォーレンが将軍の息子を殺したのは事実だろう。しかし将軍をキレさせるための息子の最期の詳細、あのエゲツない話はどこまでが本当かわからない。
手紙の暴露のシーンの直後だから、観客はその”フィクション”っぽさを感じつつ見届ける。
本当かどうかなんてどうでもいい、登場人物も、我々も、そんなところで感情を動かされるわけではないのだ。
だからマニックスは本当に保安官だったのかという疑問もあまり意味はない。
登場人物の中で彼だけ正体が明かされない。彼が保安官という証拠は提示されていないのだ。しかし彼の”正義”は本物だった(ストーリー中に到達した)わけで、正体はわからなくても構わない。
マニックスと同じく法の執行人を自称したオズワルドが、その身分を証明していたにも関わらず、その正体が”正義”ではなく”西部の正義”を断行する男だったのだから。
ただ、本当かどうかはどうでもよくても、劇中の嘘や作り話にはある程度の真実が含まれるということも逆説的にわかる。だからこそ人々は感情を動かされる。
リンカーンの手紙は本当にでっち上げだと思うが、リンカーンが手紙好きだったことは事実だ。
オズワルドが”正義”を語る場面では、彼は自身の(ギャングとしての)行動原理を隠さずに語るし、彼は”悪”に対して自覚的である。
(ただ彼の言う”西部の正義”は欺瞞である。ウォーレンの「デイジーのためにルースを殺すのは理解できても、善良なO.B.をなぜ殺すのか」という怒りは、「大事な人のためなら邪魔者は全員殺して構わない」という”西部の正義”を被ったギャングの道理を暴く。また、ウォーレン自身の「敵だけでなく味方も犠牲にした脱獄」も同じである)
ボブは、作り話がお粗末すぎる(真実が無さすぎる)せいで殺されるが、偽装した3人の中では最も正体と変わらないキャラクターでもある。
ジョン・ゲージの母親とクリスマスを過ごすという話はどうかと思うが、彼の真実の中には「母親が好き」くらいのものはある気がする。デイジーが目の前で家族を殺された時、哀悼を捧げたのは彼だった。
終盤、デイジー達がマニックスに脅迫的な交渉を仕掛けるとき何度も語られる、
「レッドロックにいる”15人”のギャングが吹雪が止んだらやって来る」という言葉。
これはハッタリのように思えるけれど、どうなんだろうか。
続く。
・レッドロックにギャングは何人いたのか
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