2016年4月1日金曜日

釣れない時 私たちは何を考へるか

「釣りって暇でしょう」とか「釣り人って気が長いよね」とか、ありがちな暴論に対して。
「釣りをしている時は、どうやって釣れるか常に周囲を観察して考えているから暇じゃない」とか「セコセコ動かないと釣れない。釣り師は短気でなきゃいけない」とかいう釣り師の反論。

ここまではよくある話である。
釣り人は短気ゆえに様々な戦略を使う。あの手この手とにかく手を出す。
それでも万策尽きることもある。お手上げ。何しろ相手は自然だ。
そうして釣れない時には釣り人は何を考えるのか。

以前『魚美人』を書いた佐藤惣之助という詩人について触れた(魚美人)。『魚美人』の他に青空文庫に『釣れない時 君は何を考へるか』という小品があった。

はじめに、釣り人は釣りをしている時には「現実的のこと」は断片的にしか考えられない。現実的なことを考えていたら釣れない。と語る。

釣りとは現実逃避だと思うので、その通りだろう。

しかし筆者の言う「現実的」とは「魚を釣る」行為をも含むのだ。つまり最初に述べたよくある話の議論そのものがナンセンスなのである。

「短気な釣り人」なんてものは、釣り師が現実世界で議論をする際に想定された像であり、実存しない。なぜならそれは現実的なものばかりしか思わない人だからである。
無論「気の長い釣り人」も然り。

だって、そうでしょう。釣りをしている時「餌を新しく」「深さを変えて」なんて「現実的」なことばかりを考えてはいないのだから。釣り人は半ば夢に至る境界上に佇むのである。
だからこそ『魚美人』では釣りを官能になぞらえていた。

そうして本当に釣れなくなった時、「釣ろう」という最低限の現実的な思考すら遠のいて、夢想の境地に入るのだ

夢のことは表象しがたい。佐藤惣之助は流石詩人。文章にして何を考えるか表している。
『釣れない時 君は何を考へるか』は象徴詩である。意識の連想。空想は時流を巡り、彼方に奔る。釣り師じゃなくても面白い文のはずだ。

「女児を生後一ヶ月から渓流で教育したら、一人を啞にし、一人を聾にし、一人を裸にし、一人を鉄仮面にし…」

中の一節であるが、詩人はこんなことを考える。
「君は何を考へるか」というなら詩才を分け与えてほしいですな。

話の締めに。
この作品をネットで検索してみたが、あまり記事はない。
某ショッピングサイトにレビューが載っていて低評価が一人。

「見出し:いまいち、よくわからない
釣れない時の対処方法の解説書だと思っていたから、違ってましたね」

釣り人は、釣りをしていない時は現実的になりすぎているのかもしれない。

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